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原爆忌前日の広島(3)

 8月5日(金)
 「原爆の子の像」建立のきっかけとなった佐々木禎子さんの物語を読んだのは、小学生の時の道徳の授業だったでしょうか。「鶴を千羽折れば願いが叶う」と聞き、病気の回復を祈って苦い薬の包み紙で折り鶴を作り続けたものの、命が尽きてしまう。鈍い僕でも、この話はズシンと来た覚えがあります。
 この禎子さんの担任だった先生が、まだご健在だとは知りませんでした。「虹のひろば」では、その野村剛さんの話を聞く会もあり、ステージでのイベント終了後、速攻で会場に向かって席を確保。案の定、満席になるまで時間はかかりませんでした。
 先生の印象では、「とにかく禎子は足が速かった」そうです。小学6年生の女子で50m7・5秒なら、相当なもんでしょう。
 禎子さんが白血病であることは当時、本人には誰も言わなかったそうですが、「禎子は知っていました」と先生は言います。というのも、「禎子は人懐っこくて気安い子だったから、病院で夜中に急患があると、当直の医者や看護婦に電話番を頼まれることが度々あった。その時、自分の名前が書かれたカルテを写していたんです」とのこと。
 何だかわからない病気だけど治りたいと願うのと、不治の白血病と知りながら「鶴を千羽折れば」と祈るのでは、思いの深刻さがずいぶん違ってきます。
 当事者ならではの話は興味深かったのですが、これまではなかなか話しづらい事情もあったようです(詳しくはこちらなどで)。戦後のことで、野村先生が担任したのは児童数62人の超マンモス学級。そのうち、被爆したのは禎子さんを含めて15人でしたが、亡くなったのは彼女だけだったというのは、何とも言いようのない巡り合わせの辛さを感じさせられます。
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 広島平和記念資料館で展示されている「サダコの折り鶴」。千羽を超えた頃の折り鶴は驚くほど小さい
by maruyamamasaki | 2005-08-06 00:40


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